「法人の山一」
~山一証券の来歴~

“山一”は野村を100社、幹事で上回っていた!!

山一は「法人の山一」として、証券界で永らく言いならされてきた。
田中角栄の主導といわれる日銀特融の後も、山一の主幹事は、実に521社であった。証券界の雄である、野村主幹事数は当時426社どまり、100社近くも差をつけていたのである。

このように、少なくとも創業後70年間は“法人の山一”の名声をほしいままにしたのである。その来歴を調べると、当然ながら、「創業者の理念」によるものが大きい。

小池国三は1897年に“山一”を創業した

山一證券の創業者である小池国三は、甲州財閥の雄である若尾家に11才から18年間奉公して貯めた資産をもとに、日清戦争の3年後の1897年4月15日(当時株式は活況であった)、東株(東京証券取引所)株式仲買人の免許を受け、日本橋兜町で活躍を始めた。

彼は商標に“山一”(小池国三商店)を選んだのだが、これは小池が奉公した旧若尾家(甲州財閥)の商標“山市”にちなんだものだ。
若尾家と同じ“山市”にしなかったのは、旧主に対する遠慮からだそうだ。

国三は“引受業務”に異常な情熱を燃やし続けた!

国三はスタートから甲州財閥系の顧客の支援を受けて、順調に株式仲買人に仲間入りし、すぐに頭角をあらわすが、それだけでは満足しなかった。“株式仲買業界(証券業)”の地位向上のために、当時銀行のみが許された「引受業務」への証券会社の参入に異常な情熱を燃やしていた。

今風の語り口でいえば、彼は生まれつきの“インベストメントバンカー”であったのだ。

国三は証券界ではじめて「借換国債」の引受に参入した

国三に早くも1909年(創業12年目)に、引受業務参入のチャンスが到来したのである。政府が財政改善の一環として「借換国債」の発行を決定したのである。小池はこの好機を生かすべく、政財界の各方面に強力に働きかけたそうである。
この運動の甲斐あって、証券史上、国債の下引受(興銀が元受)ではあったが、日本の証券業者としての初めての引受業務参入に成功した。

国三はわが国で初めて社債元引受となり、“法人の山一”(投資銀行)をめざす!

国三は渋沢栄一がリーダーとなった渡米実業団に参加し、アメリカ視察を行った。国三はウォールストリートを訪れ、米国での投資銀行家の役割の大きさや地位の高さに強い感銘を受けた。
帰国後直ちに、「引受業務」の推進に一層の情熱を燃やしたのである。

国三は帰国後の初手の営業企画として、なんと、日本全国の大手企業に起債勧誘状を送付したのである。

そのDMに、第一号として反応してくれたのが“江之島電気鐵道”(甲州財閥の鉄道王雨宮敬次郎が社長)だったのである。このディールこそが、わが国始めての証券業者による社債元引受である。このとき“法人の山一”のブランドが確立したようだ。

野村証券の創業者野村徳七は「調査の野村」の基礎をつくった!

一方、現在の証券界のトップの野村証券の創業者である野村徳七は、同時期に欧米視察に訪れて、ウォールストリート風の調査のあり方に強く引かれ、帰国後、野村証券に調査部門を設立(“大阪野村商法”を発刊。後の“財界観測”)した。
この“調査の野村”のアプローチが、第二次大戦後の証券民主化のキャンペーンの中で、奥村綱雄という名経営者を得て、野村が大躍進する基礎となった。

この両トップの着眼点の違いが、一方は「法人の山一」のブランドとして育ち、一方は「調査の野村」の企業イメージにつながる。

小池合資の暖簾を引き継いだ山一合資”に初代社長杉野喜精がなる。も“引受業務”第一主義であった!

かねてから国三は、株式仲介業から“ボンドハウス”(投資銀行家)の経営専従を考えていたなかで、創業20年(1917年)というタイミングをとらえて、杉野喜精に暖簾を引き継いだ。

それが山一合資の誕生(1917年)となる。

山一合資の初代社長杉野も国三にならってか、“引受業務”に情熱を燃やした。当初は東京現物団(引受シンジケート)を通しての引受業を展開していたが、杉野はこれにあきたらず、一流の引受業者になるためには自社で引受けるべきと考え、
① 全国の発行体(企業、地方自治体)とのネットワークの構築
② 引受証券の販売網の強化策
をとった。

山一合資創業2年目の1919年には、早くも横浜事務所を開設した。
26年までに大阪、名古屋などの全国8ヶ所に次々と法人をフォローするための事務所を開設したのである。

“山一”の創業者たち(国三と杉野喜精)100年前から “インベストメント・バンカー”であった!!!

驚くべきことだが、国三と杉野喜精という山一の創業者達は、今から100年前から、“投資銀行業”(Investment Banking Services=IBSのネーミングでもある)の“社会的意義”と“将来性”を感じとり、そこに“インベストメントバンカー”としての情熱を傾け続けたのである。