「法人の山一」駅伝
~たすきリレー~

たすきリレースタート

明治30415日(1897/ 創業記念日) 

小池国三が東株(東京株式取引所)仲買人の免許を受け、日本橋兜町に小池国三商店を開いた

明治40415日(1907年)

小池国三商店の組織を替え、小池合資会社が出資金100万円で発足した

<第一回目のたすきリレー>

大正6410日(1917年) 

小池合資の暖簾を引き継いだ山一合資が、出資金100万円でスタートした。初代社長は杉野喜精

 ■大正68月(1917年)

国三は明治44年に買収した“商栄銀行”を小池銀行(引受に特化)と改称し、“投資銀行”(ボンドハウス)の経営に専念

<第二回目のたすきリレー>

大正15113日(1926/ 創立記念日) 

杉野喜精は、山一合資の店舗を引き継いで、山一証券株式会社を資本金350万円で開業。当時“証券”は公社債のみを指した。株式と債券を大きく取り扱った山一が“証券”を使用したことで、その他の株式仲買人に拡がった。以後、日本橋兜町に“証券会社”が続々誕生することとなる

昭和53月(1930年)

小池厚之助は小池証券を開業する。(昭和3年の銀行法の改正により、“引受”を主体とする銀行(ボンドハウス)は、証券部門を独立させた)

昭和1012月(1935年)

杉野喜精は東京株式取引所の理事長に就任(証券業界出身の最初の理事長)

太田収が第二代山一社長となる。創業以来、堅実路線(債券の引受・売買を中心とした投資銀行路線)を標榜してきた山一は、太田収のもとで株式を中心とする積極的経営(株式派)に大きく転換した。

昭和11年(1936年)

戦時統制が進むなか、山一は未上場の有望企業の株式公開をすすめ、単独引受の公開売出しマーケットでは山一が圧倒した

<第三回目のたすきリレー>

昭和189月(1943年) 

太平洋戦争が開始され、戦時統制の更なる 強まりにより、企業・金融機関の統合整理がすすんだ。
このような環境下のなかで、もともと同根であった公社債の引受業務に特化していた小池証券(旧小池銀行)と株式業務もやる山一証券とが合併した。小池証券の社長小池厚之助は、「山一と合併し株をやるとすれば、相当のリスクのあるのは事実だ。しかし今の状態から結局仕事を止めるか、前進するかどっちかだ。」「たとえ財産が紙クズになってもやむを得ない。新時代に適応したようにやって行けば、別に親父(国三)の遺志にも背かないだろう。」と語っている。

昭和18年~20年(1943年~45年)

昭和19年上期は、株式も含む東株続売買高のうち、山一のシェアは80%を占めた。

昭和20年(1945年)

終戦すぐのことであるが、日本勧業銀行から「宝くじ」発行を聞きつけ、「宝くじ」の街頭販売に社員総出で行ったそうだ。

昭和20年~29年(1945年~54年)

国三の次男小池厚之助が社長の時代であるが、大きくマーケットの構造が変化しつつあった(時代は「証券民主化」の進展により、年を追うごとにリテールの重要性が増していた。 )が、表面的には名実ともに山一の時代といえる。引受でも、流通市場でも「法人の山一」のブランドを利用してトップの実績を示した。

昭和29年~39年(1954年~64年)

大神一が社長に就任。昭和30年春から、いわゆる“神武景気”であり、証券界全体はしごく活況であったが、「リテールのトップ」が「総合でもトップ」になる時代となっていたこの年を境にして、決算数字上、長期間業界のトップを維持してきた山一が、野村に抜かれることとなる。以後山一は、自主廃業まで一回も野村を上回ることがなかった。

昭和32年(1957年)

業界トップの“自負”のもとに、盛大に創業60周年を祝う。

社歌制定(西条八十作詞 古関 裕而作曲)。山一社史(60年史)は業界で定評。バッジの改定(歯ブラシ)。

<第四回目のたすきリレー>

昭和39年(1964年) 

興銀(中山)、三菱(宇佐美)、富士(岩佐)の3行の頭取と協議を重ね、日高輝が日産化学工業の社長から、山一の社長に転出した。

昭和39年~47年(1964年~72年)

日高の経営理念は「組織を生かす」「長期的視点に立つ」の2点にまとめられる。

日高輝の経営理念

社是 :

  • 顧客とともに繁栄しよう
  • 世界の“山一”へ雄飛しよう

信条:

  • 信用を重んじ確実に奉仕する
  • 英知を磨き、創意工夫に努め
  • 規律正しい勇気をもって行動する
  • 情熱を注ぎ、責任を全うする
  • 和をたっとび、組織の力を発揮する

昭和47年~平成9年(1972年~97年)

植谷久三・横田良男・行平次雄・三木淳夫

平成911月(1997年)

野澤正平は自主廃業を決議

<第五回目のたすきリレー

平成26712014年)

”山一證券”復活

山一證券は箱根駅伝の山登り(五区)の走者のように
法人の山一” “国際の山一”の復活に向けて走りはじめた。

 

■令和年72019年)

グローバルM&Aプラットフォーム【P2000】運用開始

 

■令和2年52020年)

日本産業の「再生」と「成長」:新ビジネスモデル スタート

「人(ヒト)」「金(エクイティ)」「ビジネスモデル」をセットで提供